前世の物語
そなたは燕山君七年、慶尚道安東の真城李氏家門に生まれた。家門は性理学の名門なりしも、そなたが生まれし直後父が世を去った。母が独りそなたを育てた。幼き頃よりそなたは書以外の友を持たず。 六歳にして千字文を諳んじ、十二にて四書を諳んじた。母は貧しかれども、子の学問には惜しまず。そなたは母のその誠を生涯忘れず。後日大学者となりしも、そなたは母の墓前にて常に礼を捧げた。 二十にして進士試に合格し、三十四にて大科に及第した。遅き出世なりしも、そなたの学問は既に深かった。漢陽の仕官の道はそなたに栄誉を与えしも、同時に息苦しさをも与えた。党争絶えず、学問にあらず権力が全てを定めた。幾度も辞職を請い、幾度も王が留めた。 四十になる年、そなたはついに漢陽を発った。安東に戻りて陶山書堂を建てた。そこにて己の真の道を見出した。学問は権力のための道具にあらず、人を人らしくする道なりと。毎暁起きて坐禅をし、書を読み、弟子らを教えた。 そなたの学問は理気論であった。宇宙の全てが理と気より成るとの説。されど真の学問はそれにあらず。真の学問は人の心を治めること、己自身を磨くことであった。「敬」——それがそなたの生涯の話頭であった。 五十になる年、そなたの名声は漢陽と明国まで広がった。王が幾度もそなたを召されしも、そなたは辞した。一度王が直接使臣を遣わして請うた時、暫し漢陽に行かれた。されど間もなく安東に戻った。そなたの席は陶山であった。 六十になる年、大いなる書を完成した。『聖学十図』であった。それは王に奉りし書であった。その書にて王が守るべき心の法度を記した。単なる政治の助言にあらず、一人の人間が如何に生くべきかについての教えであった。その書は後日朝鮮の最も重要なる学問書となった。 六十八になる年、そなたは己の死を予感した。弟子らを集めて最後の教えを述べた。「学問に終わりなし。されどその終わりに向かうこと自体が学問なり」。そなたは己の墓には小さき石碑一つのみ立てよと申された。大いなる碑も華やかなる墓も望まれず。 七十になる年の十二月、そなたはいつものように坐禅をしておりて静かに去られた。最後の言葉は「梅に水を遣れ」であった。そなたが生涯愛されし梅一樹が庭にあった。そなたはその梅に最後まで水を遣りたかったのだ。 そなたの死を聞きし王が自ら祭文を下された。弟子らが集まりて慟哭した。そなたの学問は後日嶺南学派の根本となり、日本にまで伝わりてその国の儒学にも大いなる影響を及ぼした。そなたの名——退渓——は朝鮮学問の最も輝ける名となった。 そなたは孤独の道を行かれた。されどその孤独が一時代の精神を作った。そなたは単なる学者にあらず。一時代を教えし師であり、時代を超えて流るる学問の川であった。その川は今もどこかにて、誰かの心を潤しておるであろう。




