前世の物語
そなたは明宗十八年、南海岸のある漁村に生まれた。そなたの父は漁師であり、最初の風景は海であった。歩く前に泳ぎを学び、語る前に櫓を漕ぐ法を知った。海はそなたの母であり師であった。 五歳にして小さき船を独りで漕ぎ得た。七歳にて荒き波の中にても揺るがず。そなたの手の平には早くより固き胼胝が出来、肩は同年代より堅かった。海人の体であった。 十歳になる年、大いなる嵐に出会った。父の船に共に乗っておりし時、嵐が突然起こった。父の同僚一人が海に落ちた。そなたは躊躇わず飛び込んだ。彼を引き上げし時、そなたは死にかけた。父はそなたを抱き長く震えた。その日父は申された。「お前は海人なり。されど海を恐れよ」。 十五にして本格的に漁師となった。毎暁海に出で、夕には捕りし魚を持ちて戻った。そなたの暮らしは単純であった。海とそなた、それのみ。されどそれにて充分であった。 二十八になる年、壬辰倭乱が起こった。倭軍の艦船が南海岸に満ちた。漁村は焼け、人々が死んだ。そなたは即座に水軍に自願した。漁師出身のそなたにとり水軍は自然な道であった。 水軍にて亀甲船を見た。その偉大なる船——敵の矢も敵の刀も防ぎし船——を見て長く沈黙した。それは単なる船にあらず、民を守る楯であった。そなたはその船の櫓を漕ぐ軍卒となった。 二十九になる年、初の海戦を行った。閑山島大捷であった。敵の艦船が海を埋め尽くしたが、そなたらの鶴翼陣はそれを圧倒した。そなたは櫓を漕ぎながら同僚らと共に叫んだ。矢が飛び来り、砲が炸裂する中、揺るがなかった。「波が荒きほど櫓を漕ぐ」——それがそなたの信念であった。 三十になる年、鳴梁海戦に参じた。ただ十二隻の船にて百隻を超える敵を防ぐ戦いであった。皆死を覚悟した席であった。そなたも然り。されど統制使が叫ばれた。「臣には未だ十二隻の船がございまする」。その叫びがそなたの胸を揺すった。その日そなたらは奇跡を作った。 三十二のある暁、露梁海戦があった。最後の大いなる戦であった。そなたはその朝櫓を握りつつ、ある予感を覚えた。その予感は当たった。そなたらの統制使がその戦闘にて敵の矢に当たられて去られた。されど統制使は最後まで叫ばれた。「我が死を告ぐるなかれ!」そなたは慟哭しつつも櫓を止めなかった。 その戦闘の終わりに、そなたも負傷した。肩に刺さりし矢が深かった。同僚らがそなたを引き降ろした。後方にて回復したが、再び櫓を握り得ず。 戦が終わりし後、故郷の漁村に戻った。再び漁師となった。されど毎朝海に出る時、そなたの胸の内には亀甲船があった。共に櫓を漕ぎし同僚らと統制使がおった。 五十になる年、そなたはいつものように海に出で、そこにて去った。小さき嵐の起こりし日であった。そなたの船は見つからず。里人らは申した。「海人は海に戻ったのだ」。 そなたの子らは漁師となり、彼らも父の如く海と共に生きた。そなたの物語は里にて代々伝えられた。亀甲船の櫓を漕ぎし漁師の物語として。 波が荒きほど櫓を漕ぐ——それがそなたの生涯であった。荒き波の中にても揺るがず、最後まで己の櫓を放さなかった。




